人間関係

武田信玄のすべてー愛された男の生き方ー

武田信玄とは
戦国時代の甲斐(山梨県)の国の武将です。

戦国時代の武将で一番強いのは誰?
と聞くと武田信玄と答える人が多いほど、
戦に強いイメージがあります。

武田信玄の生涯戦歴は
72戦中49勝3敗20分となります。

引き分けが多いのは
「戦いは5分か6分の力で勝てば良い」
との考えで、10の力で完勝してしまうと、
それだけ自軍へのダメージが増えるからです。

「大勝ちするより負けないように」なども心情に、
戦いにおいて調子に乗りすぎないように自他を戒め、
次の戦に備えていたと言われています。

この考え方は甲斐が周囲を強敵に囲まれた
環境で戦の後に平力が落ちることを
避けたのかもしれません。

そして、

「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、
仇は敵なり」
という言葉を残した通り、

「人は人の才こそが強固な守りになり、
情けは人の心を繋ぐことができるが、
仇がが多ければ、敵を増やし、
国をも滅ぼしなけない」

という考えがありました。

徹底的に敵を滅ぼして、
仇を増やすことを嫌ったのかもしれません。

ここでは強敵に囲まれた国を守るために
信玄がとった家臣への対応を中心に見ていきます。

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1.武田信玄とは

1-1.武田信玄の生涯

武田信玄が生まれた甲斐の国は海がなく、農作物も豊富とは言い難い不毛の土地でした。
しかも、周囲には北条氏、今川氏、諏訪氏、村上氏などの強敵に囲まれており、国力の低下が命取りになるという状況でした。

武田信玄といえば有名なのは川中島の戦いが挙げられます。
上杉謙信との間で5回も11年の間、行われた戦いです。

通常であれば、どちらかが負けて滅ぼされて終わりの世の中ですが、いずれも確かな勝敗はつかずに引き分けで終わっています。

▼武田信玄年表

1521年武田信虎の嫡男として生まれる
1536年初陣
1541年父信虎を追放し、甲斐国主となる
1547年甲州法度之次第(信玄家法)が制定される
1548年村上氏に負け戦
1553年第1回川中島の戦い
1554年武田・今川・北条の三国同盟
1555年第2回川中島の戦い
1557年第3回川中島の戦い
1560年

信玄堤が完成

※この年、桶狭間の戦いにて今川義元討死

1561年第4回川中島の戦い
1567年嫡男の義信死亡
1572年上洛途中の三方ヶ原の戦いで徳川氏に勝利
1573年信州伊那の駒場で病死

武田信玄の生涯で最もよく言われているのが、「あと1年長生きしていたら、織田信長は敗れていた?」ということです。

まさに上洛するために、織田信長の領地である尾張に入るところで武田軍は引き返します。
その帰路で信玄は病死してしまいます。

もう少し早く上洛できていれば歴史は変わったかもしれません。

一番の激戦と言われた4回目の川中島の戦いで重要な家臣を多く失ったのも上洛のタイミングが遅れた理由の一つと言われています。

戦国武将で一番強い武将に名前があがることが多い武田信玄ですが、どのような戦い方をしていたのでしょうか?

1-2.武田信玄の戦い方

先述通り、甲斐は豊かな土地柄ではなかったのですが、「甲斐の黒駒」として、隣国の信濃とともに良馬の生産地としても有名でした。
後に信濃も手に入れた信玄は強い馬から編成された騎馬隊を持ちます。

これが戦国最強と言われた「武田騎馬軍団」となるのです。

他の武将から見ても騎馬隊の数は多かったと言われています。
「風林火山」の旗の下に武田軍の赤い鎧を着た赤備えの軍団を見ただけで逃げ腰になる敵兵もいたそうです。
その武力の強さと同じように優れていたのが、現在にも通じる情報操作です。

調略や情報収集で戦う前から勝っていたという状況を作ってから戦をしていたので、最小限の兵力のダメージ、期間の短縮ができていました

そのため、戦力的には高くなくても調略に長けている人物など実力のある人材には見た目や出身は気にせず、雇っていたと言われています。

その他、忍者などのスパイを方々に展開させ、各国の情報を常に探っていました。
唯一の負け戦と言われる村上氏との戦いでは、情報がなく、敵地の豪雪に手こずり、大敗したという経験もしています。

ここで情報の大切さを思い知ったのかもしれません。

こうして忍びや調略の上手な人間を召し抱え、成果を上げたものはすぐに報酬を与える。
そのためにいつでも報酬となる刀や兜などを持ち歩いていたという話もあります。
家臣を褒めて伸ばすのが上手だったのかもしません。

そんな信玄からは離反者がなく、大将のために一丸となって戦う強い軍団になっていったのです。

まさに「人は城、人は堀」です。
人材に勝る守りはないということです。

1-3.武田信玄の性格

小説などを見ると生まれたときから歯が生え、髪も生えていたり、気性が荒かったなど大柄で荒々しいイメージで書かれています。
これもその頃のイメージ操作の可能性もあり、細身で慎重で周りに気を使う人柄だったという文献もあるそうです。

実は、性格は気配りがよくできると言われており、人を好き嫌いで判断することがなく、誰にでも意見を求める人間だったと言います。

とくに若い世代の教育を重視し、「幼少に受けた教育の感化で良くも悪くもなるもの。」という考え方から幼少の頃からの集団教育を行なっていました。
そのときに一人一人の素質や個性をじっくり観察して、将来の登用の判断をしました。

では、家臣は信玄のことをどう思っていたのでしょうか?

武田信玄というと、父を追放して、息子を死に追いやった怖い武将というイメージがあります。
しかし、父親の信虎は勇猛な武将であったが、感情が荒く、家臣さえも感情に任せて切り捨てる人柄だったようです。

信玄は家臣に求められるままに信虎を国外に追放し、家督を継いだのです。

ここでも家臣とともに戦いもなく平和なクーデターを起こしたということです。

これを見ると家臣からも望まれて家督を継いだと思われます。
そして、他の戦国武将と違うのが信玄は父親を殺さずに追放したところです。

殺さなかったのは、父親を慕い、尊敬していた家臣に対しての心遣いだったのかもしれないです。

しかも追放以後も十分な金額の仕送りを保護先の今川氏に送るなど、非情とは言い難く、無駄な血を流さない信玄は家臣にも好かれていたのかもしれません

その他の家族とも仲はよく、例えば、弟の信繁は信玄のNo2として活躍をしていました。
家臣からも好かれていたという武田信玄、どのように家臣と接していたのでしょうか?

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2.武田信玄の心身掌握術

武田信玄の部下には強い武将が多くいました。

武田二十四将です。
信玄自身も個性的な人材を集めても乱れない軍団にまとめあげる力を持っていたと言われています。

家臣団に信頼をおき、頻繁に会議を行い、誰もが納得でき、結論を導き出し、行動するという方法で家臣をまとめていった信玄。

一人の意見に偏ることがなく、誰もが国を支えているという気持ちが強い武田軍団を支えていたのかもしれません。

2-1.実力主義の人材登用

ワンマンな戦国武将が多い中で家臣の話を聞き、その人材を見極め重用していくという今の社会にも通じる主君(経営者)だったようです。

  • 何でも進言できるような意見しやすい環境を整えていた
  • 成果を上げた家臣にはすぐに報酬で応える
  • 大きな失敗をしても新たなチャンスを与える

といったチームマネージメントができていました。

そして、先述の通り、どんな生まれや出身や地位でも実力があれば重用する人を見る目を持っていました。

「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」

国を守るためには人を大切にしなければいけないという言葉の通り、自身は城を造らず館に住み、家臣に褒美を与え続けていたそうです。

自分の欲のためではなく国のための戦いを続けてきた信玄、その背中を見せてきたからこそ、武田二十四将という曲者たちもまとめあげられたのでしょう。

有名な話で山本勘助という人物の話があります。

この人物は軍師として有名だが、隻眼で片足が不自由でどこにも仕官ができずにいました。
しかし、信玄はその肢体は戦場での経験が豊かな証拠と見て山本勘助を重用したのです。

見てくれや噂ではなく、能力や働きを評価する現代と同じ評価方法で人を見ていたのです。

2-2.現代でも通じる他人への対応

武田信玄の家臣、
高坂昌信(弾正)が書いた著書『甲陽軍鑑』では

「一国を持つほどの武将に対しては、
例え敵であれ、
口ぎたなく謗るのは
弱い武将のもとの臆病な作法である」

と記し、敵味方を問わず、
会話のときも書状のときも敬語を用いるべきであると言っています。

現代のビジネスマンが一番先に教わる敬語の使い方に通じる考えを戦国時代に持っていました。

家臣へは褒美の渡し方や物にもこだわりをもっていました。
現物支給にこだわり、刀や家紋入りの羽織などを褒美として与えていました。

金などではなく、刀や兜などの現物にこだわったのは、与えられたものがそれを身につけることでその他の家臣が「自分もあれが欲しい」と手柄を競い合うようになり、モチベーション向上につながっていたのです。

金だとどこかで使って自分だけの満足で終わってしまいます。

そこに、殿様から褒美としてもらった鎧をドヤ顔で来た家臣がいたら、他の家臣はどう思うでしょうか?

  • 「あいつは褒美をもらったんだ。いいな」

  • 「よし、自分もがんばって褒美をもらおう」

狙ってこれをやっていたとしたらすごい人心掌握術だと思います。

そして、自身は城ではなく、平屋のような館に住み続け、立派な城を築くことはありませんでした。

自分にも厳しく、定められた甲州法度之次第を自身が敗れば同じように処罰するとしています。
自分に甘く他人に厳しい人には誰もついていかないのも昔も今も変わらないのかもしれません。

2-3.武田四天王に見る武田信玄の人を見る目

武田信玄の父、信虎は非常に武将らしい武将で気性が荒く、感情に任せて家臣を切ることもあるような人でした。

中には取り潰しになった武田家譜代の名家もありました。
武田信玄はこうした家の再興をしています。

自分が採用した家臣の中で優秀だと思われる者をその名家の跡継ぎに任命してできた代表が、武田四天王と言われる4人です。

家柄が最初からよかった訳でもなく、知力、武力が高いと見定め、重臣に引き立てました。

そして、この4人はその恩に報いるように武田氏のために人生をかけて尽くすようになります。

・馬場 信春

甲斐の武家集団の子として生まれ、信玄に見出されて、信虎に取り潰された武田氏の名家である馬場を名乗りました。
とにかく、戦に強く、70戦でかすり傷一つ負わなかったと言われています。

そして信玄にも正しいと思うことはなんでも言っていたようです。

こんな逸話があります。

今川氏を攻めたときに今川館から信玄が財宝を運び出すように指示したが、「戦中に財宝を奪うなど貪欲な武将と後世に笑われる」と財宝を火中に投げ込ませた。
それを聞いた信玄は「確かに理に叶っている。さすが7歳年上のことだけはある」と称したといいます。

家臣からの指摘も素直に聞く信玄だからこそ立派な武将として後世に名を遺したのかもしれません。

信玄の死後は勝頼に仕えますが、勝頼には疎まれ、長篠の合戦でも撤退を進言したが、聞き入れられず、武田軍は設楽原で総崩れし、勝頼を逃がすために殿をつとめ、討ち死にしました。

疎まれていたのにも関わらず勝頼を逃がすために命がけで殿(しんがり)を務めるほど、武田のために働く人物でした。

・内藤昌豊

父親が信虎の怒りを買い、殺されてしまったところを、信玄が昌豊を跡継ぎに任命してお家を再興したのが内藤氏です。

そして四天王の中で知力に最も優れていた武将と言われています。
しかも、信玄の代表的な戦いにはすべて参加して、功労をあげたのにもかかわらず「感状」(戦功のあった者に対して、主家や上官が与える賞状)を一度もほしがらなかった。

当時は活躍すれば主君から「感状」を受け取ることが名誉なことでした。
しかし、武田のために尽力することは当然のことと無欲だったと言われています。

彼は、父親が殺された後、貧困生活で苦労したと言われています。
そんな時、見出してくれた信玄に恩を感じ、人生をかけて尽くしたのだと思います。

信玄の死後は息子の勝頼に仕え、「長篠の戦い」で討ち死にしました。

・山県 昌景

昌景は最初、武田氏の重臣である飯富(おぶ)氏の次男でした。

信玄の子義信の謀反の時に兄が義信側につきました。
本来なら兄についていくところ、信玄の忠誠心に勝てず兄を密告しました。

密告したことで謀反が失敗に終わり、そのときに信玄より武田氏所縁の山県姓を与えられました。

そして、兄が率いていた部隊を引継ぎ、武田氏最強と言われる「赤備え」(武具をすべて赤く統一すること)軍団を作り上げていきます。

※武田氏滅亡後はこの赤備え軍団を徳川家臣の井伊直政が武田軍の残党を召し抱え、「井伊の赤備え」となります。

昌景は徳川軍にとくに恐れられていました。
本来なら越えてはいけない川を越え、勝手に侵攻する昌景。
その土地は同盟を結んでいた徳川の土地。

とにかく徳川兵を追い詰め、結果、同盟は決裂します。

そんな同盟決裂の原因を作ったのだから、本来なら処罰されます。

しかし、信玄はやむを得ないと許したそうです。

こういう信玄の態度は当時の戦国武将には珍しく、失敗したら切り捨てる、切腹など厳しい処罰が処されます。
そういう状況でも信玄はもう一度チャンスを与えます。

ちなみに上記の行き過ぎた戦いのせいで徳川が赤備えを見るだけで恐れ、逃げ出す兵がでてきたそうです。
無茶な行動もいい結果をもたらすのも信玄の人柄がもたらす効果なのかもしれません。

信玄の死後は、やはり馬場動揺勝頼に疎まれていました。
それでも勝頼を守るため、長篠の戦いで討ち死にします。
生涯、武田のために戦いました。

・高坂昌信

百姓の子として生まれ、身寄りがないところを信玄に召し抱えられました。
子供の頃から信玄のそばにいたそうです。

若いころから教育して伸ばして重用した一人だったのでしょう。
春日を名乗り、香坂家に養子として入りますが、のちに春日に戻ったとも言われ、高阪も香坂の間違いとも言われていて、あまり分かっていません。

そして、甲陽軍艦の著者として有名です。

何よりも百姓から大抜擢は武田家臣の中でも珍しいです。
ただ、ここからの功績を見ると信玄の目は正しかったと言えます。
しかし、家臣団からは身分違いから「信玄の見込み違い」など馬鹿にされていたのを我慢し、信玄の面子をつぶさないように心がけ、大出世をします。

昌信の功労として一番重要なことは川中島の戦いのライバル、上杉氏を抑え込むこと。
一番注意しなければならない上杉との最前線を長い間任されており、信玄の信頼の高さが分かります。

信玄は百姓の出であろうと若い頃から育てた長く仕えている家臣を大切にします。
それにより、引き立てられた方もそれに応えるように最善を尽くすようになるのです。

上杉の抑えのため、長篠の合戦には参加せず、生き残った武将の一人です。
長篠の合戦後は甲陽軍艦にて武田氏の生末を案じた文章を残しており、やはり武田を一生をかけて守った武将です。

そしてこの4人は御恩に報いるように武田氏のために人生をかけて尽くすようになります。そんな4人のエピソードをご紹介いたしました。

2-4.武田信玄の愛され方

武田信玄は意欲的に他国を侵略しましたが、根本は本国である甲斐(山梨県)の発展と安定が目的でした。

この頃の戦の兵隊の中には武士だけではなく、農民も加わることが多い時代です。

そのため、農作物の収穫の多さが国の豊かさを決め、国力を決めていきます。

甲斐は土地が貧しく、洪水が多い土地でした。
そこで洪水を防ぐために信玄は堤防を築きました。
「信玄堤」と言われ、洪水が収まり、これにより農作物が守られたそうです。

それでも、米の収穫高が他国よりかなり少なかったため、麦などの強い農作物を育てるようになります。
そして、その麦を使い、戦い中でも、兵たちの士気や体力が落ちないようにほうとうを信玄が陣中で推奨して作らせるようになります。

鍋の代わりに鉄製の陣笠を使って戦場で作っていたようです。

甲斐という領国を愛した信玄の人気の高さは今でも、ほうとうが名物として食べ継がれていることが地元の人に愛された証となっています。

お土産の定番となっている「信玄餅」も信玄が陣中で砂糖入りの餅を食べていたというエピソードをもとに作られました。

今でも山梨にいくと地元の英雄だから好きではなく、先祖代々信玄が好きという山梨魂みたいなものがあるというようなことを言う人に何人か会いました。

今でも信玄公は大人気です。

亡くなった後も上杉謙信にその死を惜しまれ、信玄が亡くなった後の武田に攻め入ろうという家臣を謙信が止めたという逸話もあります。

敵までもたらしこむ人柄は現在の社会でも見習うところが沢山あります。

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最後に

武田信玄には大きな目標がありました。

その目標は自身の欲ではなく、国を豊かにすること、そして、最終的には天下を取ることです。

この目標は家臣の生活も豊かにします。
農民のことも考えないと国が干からびてしまいます。

そのために信玄は内政にも力を入れ、戦もダメージを少なくして、国力を落とさないようにしていきました。

そして、戦ではよりよいポジションによりよい人材をつけて戦うという今のマネージメントと変わらない戦法をとっていました。

自分に合った水を得た家臣団はさらなる才能を花開かせ、武田軍を強い軍団としていきます。

武田軍は最強と言われているのは結局のところ、信玄が他人をしっかり見て話を聞いた結果なのかもしれません。

そして、この時代に家臣たちのモチベーションを上げるためには何をすればいいかをしっかり理解し、戦国時代にこれができていたのは驚きです。

人の話をしっかり聞くこと、人が話しやすい環境を作ることは明日からでも実践できる「家臣(部下)への対応」だと思います。

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