ビジネス・仕事

徳川家康とは?家康の名言で紐解く苦難と学びの半生

徳川家康の名言(遺訓)で有名な一節があります。

人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し、

急ぐべからず

一度は耳にしたことがある人もいるでしょう。
しかし実はこの名言には続きがあります。

動乱の戦国時代の幕を引き、
260年余り続いた江戸幕府を開いた天下人の家康は
どんな人物だったのでしょうか?

あまり知られていないかもしれませんが、
徳川家康の半生は、幼少期から苦難の連続だったのです。

この記事では、徳川家康の苦難の半生と、
様々な経験から学び、
後に日本人なら誰もが知っている
天下人となった家康の人間性を、
家康が遺した名言とともにご紹介します。

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1.家康 苦難の半生

1-1.我慢の人質生活

徳川家康は、三河国(現在の愛知県東部)
松平家の嫡子として生まれます。

※幼名は松平竹千代ですが、ここでは家康で統一します

当時の松平家は、織田家の侵略により
大変苦しめられていました。

領主である家康の父広忠は、
代々庇護を受けている今川家に援軍を求めたところ
援軍の代わりとして、
家康を人質に差し出すように言われ

広忠はこの要求を飲みました。

家康は当時6歳。
人質になるために今川家に向かう道中、
家臣の裏切りにより、家康がたどり着いた先は、
なんと敵対している織田家だったのです。

織田家は家康を人質に取ったことを良いことに、
広忠に使者を遣わしこう言いました。

『織田家に従え。さもなくば家康(竹千代)の
命は亡きものと心得よ』

広忠へ今川家と手を切るように促したのです。

しかし、広忠はきっぱりこう答えます。

『一子の愛に迷うて、
今川氏との多年のよしみを変ずること、
武士の道ではござらん。
愚息の存亡は、お心にお任せ申す』

家康を捨てる覚悟を決めていたのです。

広忠は、我が子家康が可愛くなかったのか…
そうではありません。

「愛する我が子を捨ててでも、
今川家に守ってもらわなければ、
松平家を存続させることができない」

という当時の松平家の苦しい状況が伺えます。

ここから、家康の長い人質生活が始まりました。

家康が、織田家に囚われていたのは、
6歳から8歳の2年間であり、
この期間に、父広忠は24歳の若さで亡くなります。

その後、織田と今川との人質交換により、
家康は8歳から19歳までを
今川義元の人質として過ごしました。

幼い家康が家族から引き離されて、
寂しく不安な日々を送っていた事は
容易に想像ができます。

1-2.家臣に命を狙われる

家康が22歳のころ、三河国の領内にて、
家康を大変苦しめる事件が起こりました。

それは【三河一向一揆】です。

(一揆というのは、志を同じくする集団の
一致団結した行動のことを言い、
権力者に対する武力行使を伴う抵抗運動を指します)

この一揆という行動を起こしたのが、
一向宗の門徒だったため、
一向一揆と呼ばれています。

武装した一向宗徒の抵抗が激しくなるなか、

この頃の家康は、
今川家からの独立を果たしたばかり
だったので、気負いもあったのでしょう。

『今、一向宗徒に目に物見せてやらねば、
後世にわたって舐められてしまう。』と

焦った家康は、
一向宗徒に対して武力討伐を決し、
全面対決の構えになりました。

そんな中、こんな時こそ頼れるのは
有名な家康の家臣団です。

しかしこの一揆、
なにが大変だったかというと、

頼りになるはずの家臣の
半数近くが敵対側の一向宗徒に回ったのです

更には、一揆の指導者の一人が
家康の祖父の代から仕えていた
本多家の本多正信だったことも、

家康にとってショックが大きかったことでしょう。

本多正信は、一揆側の軍師として猛威をふるい
大いに家康を苦しめました。

敵方には、家康の戦力の要ともなる
家臣たちが大勢いるのです。

今、感情のままに武力制圧をしてしまうと、
一揆を鎮圧させたとしても、後に待っているのは
家臣の半数以上を失った徳川家の衰退です。

当初は、
和議に積極的ではなかった家康ですが、

家臣たちにも勧められたことで
家康は、自身のプライドや感情を押し沈め、
和議を持ちかけました。

一揆側にはだいぶ甘い条件を飲んで
和睦を果たすことができたのです。

では一揆側に付き、
家康を殺そうとした家臣たちは
どうなったのでしょう。

家康は一揆側に回った家臣の渡辺守綱や夏目吉信、
蜂屋貞次の帰参を許しました。

そして、軍師として敵対していた
本多正信等の主要メンバーは、
所領没収の上で、国外退去にします。

しかし、後に本多正信は赦免され徳川家に戻り、
家康が死去するまで重臣として重宝されています。

恐らくこれが織田信長や豊臣秀吉であれば、
問答無用で即刻斬首されていた事でしょう。

自分のことを
殺そうとした家臣をも許した家康ですが、
この処遇は当時の時代背景を考慮すると
大変珍しいケースです。

1-3.信長の命令で嫡男を切腹させる

家康は38歳のとき、
究極の二択を迫られることになるのです。

家康には17人もの子供がおり、
あの有名な二代目将軍の徳川秀忠は、
家康にとって3番目の息子になります。

家康は15歳で結婚し、
18歳のころ、初めての子供を授かりました。

名を『信康』といい、
この『信』の字は、同盟を結んでいた、
織田信長からもらった字です。

信康は、後に織田信長の娘
徳姫と結婚します。

信康と徳姫が結婚し、しばらくすると、
信長のもとに、徳姫からの手紙が届いたのです。

それは、家康の妻であり、
信康の母(築山御前)と
信康に関する不満の手紙でした。

手紙の内容は、大まかにはこの様な内容です。

  • 信康や姑との間が不仲であること
  • 信康の日々の悪行について
  • 姑の築山御前が、武田方に内通していること

娘からの手紙を読んだ信長は、
心穏やかではありません。

しかし、当時の信長は、東に武田、
西に毛利と、まだまだ油断ならない時期で、
徳川を敵に回したくは無い気持ちから、
慎重に対処することにし、

徳川家ナンバー2とも呼ばれる、
筆頭家臣の酒井忠次に
事実確認をしました。

すると酒井忠次は、
信長からの質問の全てを認めてしまったのです。

なぜ、忠次は
主の一人息子でもある信康を庇うどころか
信康の立場が悪くなるような反応を
したのでしょうか。

信康はカッとなると、
見境がつかなくなることがあり、
その分、戦場での信康の働きは、

誰もが驚くほどの猛者ぶりだったために、
家康も「我が子ながら、天晴れな武者ぶりかな」と
絶賛するほどでした。

家康は信康の将来を大変期待していました。

しかし、日常生活の信康は、家臣たちでは
手に負えないほどの気性の荒い性格でした。

鷹狩が上手く行かない腹いせに
行きがかりの僧を斬り捨ててたりと、

家臣を大切にせず、
頭ごなしに軽々しく扱うなど、
筆頭家臣の忠次の諫言でさえも、
一切耳を傾けません。

忠次は、家康の目の届かない所での
信康のこの様な行いから
徳川家の行く末を案じていたのです。

忠次が、手紙の全てを認めると、
もう信長の迷いはありません。

『老臣がすべて承知している
ということならば疑いない。
これではとてもものにならないから、
腹を切らせるよう家康に申せ』

と言い放ったのです。

信長の言葉を聞いた
家康の選択肢は2つです。

信長の命に従うか・従わないか

信康は家康にとって、
初めての子供です。
可愛くないはずがありません。

でも、もし従わなければ、
織田信長は同盟を破棄して、
徳川を攻めて来るでしょう。

また、家臣ナンバー2の酒井忠次も
織田方についてしまうでしょうし、
筆頭家臣の酒井忠次が織田についたと知れれば、
家臣達の不信感にも繋がり、
お家存続の危機に直結します。

我が子を取るか、徳川の家を守るか…。
悩んだ家康は、
嫡子信康への切腹を言い渡したのです。

時は流れ、家康は59歳。
関ケ原の合戦前夜に雨の中本陣の準備をしている時
ポツリとこう漏らしていたそうです。

『この齢にもなって、
これほどつらい目に遭おうとは、
信康が生きていれば、
このようなことしなくても済んだものを…』

信康の切腹から20年以上経ってなお、
失なった我が子を想う父親の感情は、
戦国の世でも変わらないのでしょう。

1-4.命がけの伊賀越え

家康の三大危機と呼ばれる事件を知っていますか?

1つ目は三河一向一揆
2つ目は三方ヶ原の合戦

3つ目はこれから紹介する伊賀越えです。

天下の織田信長が明智光秀の手により
本能寺にて討たれた時、

家康は京都堺の茶会に招かれていました。

当時家康は42歳。

信長が討ち死にしたことを聞かされた家康は、
信長に殉死しようとしましたが、

家臣本多忠勝の

「生き延びて岡崎へ帰り、
明智光秀を討つのが最大の供養である!」

という説得により、思いとどまりました。

しかし、もしここで生きる選択をしても、

次に明智に狙われるのは自分だと察した家康は、
この堺で身を潜めてやり過ごすことは
不可能であると悟り、

京都の堺から、自身の城である愛知県岡崎までの
大移動を実行することになりました。

岡崎に戻ることを決めたら、今度の選択は、
【どのルートで帰るべきか】です。

人が多い京の都を突っ切っていくルートか
人は少ないが、危険な山道を通るルートか

家康は、できる限り人目につかない
山道を通るルートを選びましたが、

家康と行動を共にしていた
武田信玄の元家臣、穴山梅雪は

山道のルートは危険であると言い、
京の都を通るルートを選びました。

ここが運命の分かれ道となったのです

家康と別れたのち
穴山梅雪ら一行は道中で山賊に襲われ
全員命を落としたのです。

そんなことも知らない家康たちですが
道中はたくさんの苦労がありました。

追手は明智軍だけでなく、
山賊や落ち武者狩りも家康達の事を狙っています。
また、近隣の村の一揆に遭遇する事もありました。

時には追っ手と戦い、
時には金銭を渡して危機を回避したりと、
家康一行には息をつく間もありません。

しかし、織田方の息のかかっていた
村人達や商人達に匿ってもらったり、

伊賀の忍者で有名な服部半蔵の護衛により
家康ら一行34名は無事に
岡崎城に帰還することができました。

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2.家康の性格・人間性

2-1.キレやすかった家康の最大の失敗

世間一般の家康のイメージは、

『鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス』
というように、
穏やかな印象を持っている人もいるでしょう。

しかし家康は元来、とても気性が荒く
短気でキレやすい性格でした

この性格は、家康の家系の遺伝とも言われており
祖父、父親、息子も同じ様に
非常に気性が荒かったのです。

そんなキレやすい性格が災いし、
家康が31歳の時、
生涯最大の失敗をしてしまうのです

それは、猛将・武田信玄との戦い
三方ヶ原の合戦での大敗です。

織田・徳川の連合軍と
戦国最強と謳われていた武田軍。

※武田信玄についてはこちらをご覧ください。

武田信玄のすべて

織田軍からの援軍も少なく、
手勢の少ない状況の中で
腹をくくった徳川軍は、

浜松城で武田軍の
交戦を待ち構えていました。

しかし、接近してくる武田軍が、
突然進路を変更し、
浜松城を通過しようとしているのです。

徳川軍は唖然としました。
すると同時に、浜松城内では
こんな噂が飛び交う様になります。

「武田は、徳川など眼中になく、
織田との交戦に向かっているのではないか」と。

それを聞いた家康は大激怒。

『多勢で自分の屋敷の裏口を
踏み破って通ろうとする者を、
家の中から出て
咎め立てしない者があろうか!!!』

プライドを踏み躙られた家康は怒り狂い
武田軍の背後を取ろうと、
挑みかかったのです。

しかしこれは、武田軍の罠だったのです

武田軍の挑発にまんまと乗ってしまい、
傾れ込む徳川軍に対して、

武田軍は対徳川軍の布陣を敷いて
待ち構えていたのです。

準備が出来ていた武田軍と、
感情に流され、勢いで挑んでしまった徳川軍。
どちらが優勢かは歴然です。

結果は徳川軍の惨敗でした。

家康の家臣夏目吉信が、家康の兜を引き剥がし
影武者として身代わりを務めたことで、
家康は難を逃れることができました。

ボロボロになりながらも、
何とか窮地を脱した家康が
敗走中恐怖のあまり脱糞した逸話は有名な話です。

上の像はその時の自画像『しかみ像』を元に
制作された石像です。

家康は、自身の慢心を戒めるために絵を描かせ、
絵の「しかみ像」を生涯にわたって
座右においたといわれています。

2-2.自分が凡人だと気づいた家康が選んだ生き方

・徹底的に真似ぶ

家康は、自身の生い立ちや経験から
冷静に自分を分析していました。

それは、
織田信長のような、独創的かつ、
圧倒的なカリスマ性を持っているわけでもなく、

豊臣秀吉のように、
人心掌握に長けているわけでもなく、

家康は

【自分は卓越した才能がない凡人である】

ことを自覚していたのです

そこで家康が選んだ道は、
『偉人から学ぶ(真似ぶ)こと』でした。

『真似ぶ』とは、
『学ぶ』の語源にもなった言葉で、
意味は、全く同じです。

家康は、異常なまでに
この『真似ぶ』を、実践してきたのです。

特に家康が真似たのは、
自身が大敗を喫した武田信玄でした。

家康は、三方ヶ原で武田信玄に惨敗した後、
軍編成や戦術、政治観念だけではなく、
信玄の口癖までをも
徹底的に研究して、信玄の真似をしました。

そしてこの武田信玄の真似こそが、
後に様々な戦いで大いに役立ち、
家康を勝利へと導いたのです。

・家康を人使いの達人にした教本

また、勉強熱心だった家康は、
大変な読書家の一面もありました。

多くの本の中でも
和本の『吾妻鏡(あづまのかがみ)』や、
中国の古典や歴史書、兵法書を
好んで読んでいたと言われています。

中でも熱心に読んでいたのは
現代でも『世界最高のリーダー論』とも言われ
多くの経営者が愛読している

中国の帝王学
「貞観政要(じょうがんせいよう) 」という本は
家康を人使いの達人にした教本とも呼ばれています

この「貞観政要」について簡単に紹介します。

「貞観政要」は中国唐の
太宗・李世民(唐王朝の二代目)の
政治に関する言行を記録した書で
全10巻40篇にまとめられています。

(貞観は年号を指します)

中国史上、最も良く国内が治まった時代で、
『貞観の治』と呼ばれています。

「貞観政要」には、平和な時代を築いた太宗と、
その臣下や周囲の人々の言行が明快に記されており

300年も続いた唐時代における
長期政権のヒントが沢山記されているため、

中国では歴代王朝の君主
(フビライ・ハン、万暦帝、乾隆帝)等も
帝王学を学ぶために愛読していました。

また、理想的な政治を行ったことが
日本にも大きな影響を与えており、
治世のお手本にされています。

鎌倉時代には北条政子も熱心に読んでおり、
明治天皇も太宗の考えには深い関心を寄せています。

ここで「貞観政要」に記されている有名な名言を
一部紹介します。

明君の明君たる所以は広く臣下の進言に耳を傾けることであります。

<魏徴>

これは、太宗が臣下の魏徴に対して
「明君と暗君の違いがどこにあるのか?」と
質問された際に魏徴が回答した言葉です。

それに対し、太宗が遺した言葉にはこの様なものがあります。

私の下す勅令に、
もし妥当適当を欠く点があれば、
遠慮なく意見を申し述べるべきだ。

<太宗(李世民)>

※参考:超約版 貞観政要 呉兢(著),夏川賀央(翻訳),出版:ウェッジ

太宗が『貞観の治』を実現できたのは
この言葉に集約されている。
と言っても過言ではありません。

唐の時代の前、

随の王朝時代、
暴君だった煬帝の酷い仕打ちを恐れた臣下たちは
たとえ煬帝が間違った行いや言動があっても
見ぬふりをしていたのです。

その結果、随の王朝は
わずか29年で幕を閉じたのです。

権力者は、権力を持つほど
周りにはイエスマンが集まり、

間違ってることに対して、
誰も『間違っている』と言えなくなります。

すると、権力者は

『自分が言ったことは全てが正しい』

と勘違いを起こし、

周りの意見など聞く耳を持たず、
随の王朝のように、
当人が気づかぬ内に破滅の道へと進むのです。

随王朝と同じ運命を辿らないためには、
どうすればいいのか。
その答えが「貞観政要」には記されています。

・家臣の心を掴んだ家康の立ち振舞いとは

「貞観政要」を簡単に紹介しましたが、

「貞観政要」を愛読していた家康は、
この学びをどの様に活用していたのでしょうか。

ここでは、「貞観政要」にまつわる
家康のエピソードを紹介します。

家康が家臣の本多正信たちと会議をしようとした時

一人の家臣がやってきて、
懐から一通の書付を取り出し
家康に差し出しこう言いました。

『わたしが、日頃心に留めておりますことを
書きつけたものです。
はばかりながらご参考になることも
あると思いまして、
お目通しいただきたく存じます』

家康は、それは良い心配りだ。と言い
家臣に一つずつ読み上げさせ、一項読むごとに、
最もそうにうなずいて聴いていました。

最期まで読み終わると、家康は家臣に言いました

『これに限らず、
今後も気づいた事は遠慮なく申し聞かせよ』

これを聞いた家臣は、
自分の意見を家康が聞き届けてくれたことに
大いに感謝し部屋を後にしました。

家臣の退出を確認した家康が、本多正信に

『今、読んで聞かせたことをどう思うか?』

と聞きます。

正信は正直に

『一ヶ条もお役に立つようなことは
無いと思います』

と答えるのです。

すると家康は、正信に言います。

『いやいや、彼が自分の分別で精いっぱい考え、
書き付けたものだから
それはそれでよい心がけなのだ。

 参考になることはなかったが、
 思ったことを内々に書き付けて常に懐中し、
 折を見て私に見せようという志こそ、
 何ものにも代えがたい。』

そしてこのように続けます

『およそ人の上に立って諫言を聞かない者で、
国や家を失わないものは、
古今東西にいないのだ。』

家康が「貞観政要」をどれほど熱心に読み解き、
実行してきたかがよくわかるエピソードです。

※徳川家康の勉強法(加来耕三:著)より引用

3.家康が残した名言・教訓

冒頭で少し触れた
家康の名言(遺訓)に話を戻します。

【人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し、

急ぐべからず】

続きはこの様に記されています。

  • 人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。
  • 不自由を常とおもへば不足なし。心に望み起こらば困窮したる時を思ひ出すべし。
  • 堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思へ。
  • 勝つことを知りて、負くることを知らざれば害その身にいたる。
  • おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは、過ぎたるより勝れり。

この意味を意訳すると以下のようになります。

  • 人の一生というものは、
    重い荷を背負って遠い道を行くようなものだ。
    急いではいけない。
  • 不自由が当たり前と考えれば、
    不満に思わずに済む。
  • 心に欲が起きたときには、
    貧しさに苦しかった時を思い出せ。
  • 我慢することは、
    無事に長く安らかでいられる基礎である。
    「怒り」は敵と思え。
  • 勝つことばかり知って、
    負けることを知らない奴は、
    大事なときに失敗する。
  • 物事の原因や責任は、
    自分を責めて他人を責めるな。
  • 能力や財力など何事も、
    有り余るよりも足りないくらいの方が良い。

ここまでこの記事を読まれた方なら、

この泥臭い家康の言葉の1つ1つに
家康の半生がしっかりと刻まれていることが
よく分かることでしょう。

家康は、その長い人生の中で
多くの成功を見て、
多くの破滅を目の当たりにしてきました。

自身を神格化し、怒りの感情に身を任せた結果
比叡山での大量虐殺が反発を呼び
家臣に殺された織田信長。

日本統一では足らず、無理な朝鮮出兵を繰り返し、
己の欲に執着し、晩年には人間不信に陥った豊臣秀吉。

家康の言葉は、自身の失敗への自戒とともに、

『信長や秀吉と同じ様になってはいけない。』

という教訓にも読み取れます。

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4.家康から学べること

家康は62歳で天下統一を果たし、
75歳でその生涯に幕をおろします。

家康は晩年、家臣たちに言った言葉があります。

『天下は天下の人の天下にして、
我一人とは思うべからず。
国もまた、一国の国にあらず。
家も一家の人の家にして、一人の家ならず。
何事も一人にては成り立たぬものぞ』

この言葉の本意は

何ごとも、我一人では成り立たぬものと知れ

です。

江戸幕府を長く繁栄させる為には、家康亡き後は、
自身の家督を継ぐ者達に伝えていかなければ
あっという間に衰退が訪れます。

家康の教えは、
江戸幕府が終わるまでの約260年もの間
十五代将軍の慶喜まで受け継がれたのです。

【自身に天下を取らせてくれたものが
何であったのか。】

この答えは、数多くの苦難を経験し、
その経験全てを自身の学びとして吸収した家康が
生涯をかけて得たものでした。

戦国時代から江戸時代を生きた家康と
生きる時代は違えど、

自らの苦労から、学びを追求して
着実に実践してきた家康の生き様は、
現世の私達も学べるものは沢山あったと思います。

ここまで徳川家康の生涯や名言から、
苦難を乗り越えて天下統一をなし得ることができた
学びの極意をお伝えしてきました。

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※参考文献

  • ・徳川家康の勉強法(加来耕三:著)

  • ・徳川家康の決断 桶狭間から関ケ原、大坂の陣まで10の決断(本多隆成:著)

  • ・徳川家康(山岡荘八:著)

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